Thirsty Thirty

生活、ときどきオタク

『応援』の話

劇団プレステージの『URA! URA! Booost!』を見てきました。その中で、痛いほどにぶっ刺さった台詞がありました。そこから派生して考えた、『応援とは?』という話。ウラブーの思想や台詞のネタバレが挟まれているので続きは一応隠しておきます、その辺りは自己責任で何卒何卒。

 

『応援される方には、相手と戦うっていう明確な目標があるんだって!応援する方は、その夢に勝手に乗っかって戦ってるつもりになってるだけなんだって!』と悲痛な声で叫びながら問いかけるシーンがあった。正直、突き刺さった。応援って何だ、誰のためだ、何のためだ。薄々心の中で思ってた、忘れようとしてもいつもどこかにちょこっとだけ、太陽の黒点のようにぽつんと、シミみたいにあるその問いかけを、改めて言葉にされてしまった。それっぽい答えを出すのは簡単だ。『誰かを応援することで、自分をも奮い立たせているんだ』となんだかそれらしい、尤もらしい言葉を並べてしたり顔で定義づけることはそれほど難しくない。けど、自分の中の自分は納得した顔をして腹の中では納得してない。いつだって、この行いは正しいんだろうかと思っている。

ここで言う『応援』のことは、今の自分に置き換えれば『ドリフェス!を応援すること、そしてリアドリやリアフネを応援すること』と同義だ。気が付けば、彼らを応援し始めてから今年の秋で2年になる。タイミングが合ったのか、それとも水が合ったのか分からないけれど、この2年間、一度だって『応援するのをもう辞めてしまおうかな』と思ったことはない。誇張抜きで、一度もない。至らないこともあったし、正直公式の対応にムカついたこともある。個々の人に対して、それはどうなんだろうか、と思ったこともある。やり方が好きじゃないと思ったことだってある、けれど、それは一度も『もう応援を辞めてしまおうか』に繋がったことはない。意地なのかと聞かれれば、そうなのかもしれないと答えるだろうし、それだけ夢中なんだねと肯定されれば、そうじゃないかもしれないと否定するだろう。

『それだけ、応援したくなる人たちなんです。応援したくなるPRJなんです』というのは、わたしの中ではある種の信条のようになっているところもある。そもそも『応援』がキーワードになっているPRJなのだから、応援したくなるしかけなんてそこらに散らばっているのだ。とっかかりもたくさんあるし、入り口だってたくさんある。ゲームが苦手でもアニメがある。アニメが苦手でも、三次元のキャストがいる。イベントだってある、ライブだってある。そして、そのどれか1つにでも触れてしまったら、『応援したくなる』。そういうコンテンツなのだから、そして私はそのコンテンツが設定したターゲットどんぴしゃなのだから、応援したくなるのは『策にはまった』という程度のもので、何らおかしいことでもなんでもないのだ。

けれど、じゃあ、『応援』って何だ。冒頭に戻るわけじゃないけれど、私が応援したことで、私一人が応援したことで、何かが変わるのか。彼らが武道館に明日立てるのか、来月東京ドーム公演ができるのか。アニメが大ヒットして、誰からも愛される人たちになれるのか。答えはどれだってNOだ。私はCDも買うし、雑誌も、チケットも買う。イベントにも、舞台にも行く。自分で言うのもおこがましいけれど、それなりにちゃんと現場にも行きそれなりにお金も使う客だと思う。けれど、じゃあ、私が明日応援を辞めたらどうなるんだろうか。そんなの簡単だ、何も変わらない。買うはずだったチケットは誰かの手に渡って、買うはずだった雑誌はもしかしたらそのまま返品されて、買うはずだったCDはもしかすると誰にも買われずに店頭にしばらく並んでいる。たったそれだけのことだ。応援に世界を変える力なんてない。まして、私一人の応援に。

学生時代、私は運動部でマネージャーをしていた。そして今はバックオフィス系の仕事をしている。どっちにも共通しているのは、『自分では決して矢面に立たない、立てないポジション』であるところだ。マネージャーの時は、仕事をしながら声を張り上げて応援をしていた。なんなら戦術に関わる指示だって出していた。でも、私が点を決めることは無かった。今も、営業や上長に小言を言ったりときには叱ったりしながら、けれど自分じゃ売り上げなんて1円だって立てられやしない。後方支援なんて言えば聞こえはいいけれど、結局はあの舞台中に出てきた台詞のように、『勝つか負けるかの勝負なんてしていない』んだと思う。その人たちの夢に乗っかって、チームが勝てば喜んで、売り上げ目標達成したら喜んで、自分は何もしてないくせに、って。

それは、DFを『応援』するにあたっても同じようなことが言えてしまう。彼らの夢をどれだけ『応援』したって、私がドームのステージに立てるわけじゃない。武道館で夢を叶えるわけじゃない、そもそも私は武道館に立ちたいなんて一回だって思ったことはない。ディアドリに、クロフネに、そしてリアドリとリアフネの夢に勝手に乗っかってるだけだ。応援というフィルターを通して。これまで一度だって、『自分の力で勝ち負けが決まる場所』に立ったこともないくせに、そんなところに立ち向かう人の背中を押した気になっただけで、それで勝負した気になっているだけだ。

けれど、だけど、でも。知っている反証の言葉をありったけ並べつくしてでも、私は反論したいし、何なら自分を正当化したい。彼らを応援していることは間違っていないと、誰かに言ってほしい。開き直りでもいい。あの舞台では否定されてたけれど、『しょうがない』と言ったっていい。前述したとおり、私一人が彼らのファンを辞めたところで、何も変わらない。もしかしたら、誰かが『そういえばあの人最近見ないな』とひとりくらいは思ってくれるかもしれない。それくらいなのだ、たかが一人のファンなんてものは。けれど、彼らを応援するのは、そんな『たかが一人のファン』の集まりなのだと思う。彼らを応援する人たちの中に、めちゃくちゃな金持ちとか、石油王とか、大富豪はきっといない。居たとしても、せいぜい一人だ。その人がもしファンを辞めたら、もしかするとPRJは売上的に傾いてしまうかもしれない、けれどそんなものはきっと万が一、億が一の話でしかない。私たちはみんな、『ただの一人のファン』なのだ。

誰かを、もしかしたらこれを読んでいる彼らのファンの人を、否定したいなんて気持ちはこれっぽちもない。もしこれを読んで『否定された』と感じるなら、きっとその人は最早『たかが一人のファン』ではないのだろう。それは、とてもうらやましいことだと思う。嫌味でも揶揄でもなく、自分のことを『たかが』なんて言葉で括らないのは、すごく勇気の居ることだから。私は、自分のことをたかが、ただの、という言葉で括ってしまう程度だから。

『応援は届いています、力になります、なんて、上っ面だけの言葉だと思っていた』と、私は過去のブログの記事の中に書いている。けれど、そうでないと思ってしまった、とも。どちらの気持ちも、時々思い出す。捻くれているので、やっぱり上っ面の言葉なんじゃないだろうかと疑うこともある。けれど時々、ハッとするくらいに届いていることに気付く。私はきっと、『応援は届かないもの』だと思っていたのだ。届かないけれど、届かないからこそ、安全なところで、自分には危害が及ばないところから声を上げて、時には勝手な言葉を吐きながら応援していたのだ。けれど、その応援は届いていたことに気付いてしまった。いろんな方法で気付かされた。それは彼らの言葉の端々だったり、振る舞いや、視線や、表情や、色んなものや瞬間だったり、挙げていけば枚挙に暇がない、けれど確実に届いているというその現実を、彼らの言葉によって突きつけられてしまった。だとしたら、どうするんだ。応援が届いていたのなら、そこで応援をやめるわけにはいかないのだ。この文章を打ちこむのに、一瞬指が止まった。聞こえのいいことを言っておきながら、自分の中にそんな覚悟はまだ無いのだ。けれど、明日からもきっと、私は彼らを応援するのだろう。勝手に声を張り上げていたはずの『応援』が、届いていると分かってしまったから。

応援とは何だという問いへの最適解は、未だ見出せない。きっとこの後も見つからない。ウラブーを見てそれでも分からないなんて、と怒られるかもしれないし、呆れられるかもしれない。感受性が無いと言われればそれまでの話で、ええそうです、と肯定するしかない。けれどその答えは、自分が納得する答えは、きっとずっと見つからない。それでいいなんて自分を肯定する言葉で結ぶつもりはない、そんなのはきっと後から読んでああ恥ずかしい、と思うだけだから。だから、私は明日からも探すのだ、『応援とは何だ』という問いへの、自分の中での答えを。自分を正当化するための、乳臭くて甘ったれた、けれど自分だけはそれこそが最高だと思う答えを。