Thirsty Thirty

生活、ときどきオタク

不完全な存在と他力の話

わたしは『不完全』なものが好きだ。それは自分が不完全な存在だからというのに他ならない。これまで自分を完璧だと思ったことは一度だってなくて、だからこそ共鳴するように、吸い寄せられるように『不完全』なものを好んでしまう。
アイドル界においてその対比は48Gとハロプロによく置き換えられる。成長過程を楽しむ、普通の子だった女の子がアイドルとして努力するさまを見せていく48G。垢抜けない女の子は、握手会や劇場公演で人前に立って少しずつアイドルになっていく。対して、デビュー後厳しいレッスンを受けて完全体になってから人前に出すハロプロ。立ち位置の間違いすら許されない美しいフォーメーションダンスは、それこそ血の滲むような努力の上に成り立っているのだ。

どちらか好き?というのは野暮な質問だし、それは人によるとしか言いようがないけれど、わたしは前者が好きだ。それまでずっと、アイドルは『完璧』な存在だった。女の子はバツグンに可愛くて、クラス内にいたら絶対モテるだろうなっていう子ばっかりで、男の子もそれは同じで自分には絶対手が届かないだろうという人ばかりで。そして彼ら彼女らは、めったにプライベートを見せなかった。今と違ってSNSどころかブログすらまともに存在していなかったあの頃彼女たちを見られる媒体はTVか雑誌で、その中にいる彼女たちはいつもアイドル然としていた。
けれど、48Gは全然垢抜けてなかった。重い前髪、してるのかすらよく分からないなんだかイマイチなメイク、ダッサい制服モチーフのピンクの衣装。「これがアイドル?」と思っていた彼女たちは日を追うごとに可愛くなっていって、メイクも髪型もこなれていって、気がつけばこの子かわいくない?!と思うような存在になっている。その過程の中で時には泣き言を言ったり、時には炎上したりする。自分に自信がないと泣く子もいれば、コンプレックスをさらけ出す子もいる。それは、一昔前に自分がそうだと認識していた『アイドル』とは真反対の存在だった。

この夏、念願だった『Have a good time?(再演)』を見ることができた。3年前、まだDearDreamが生まれる前、そしてわたしはまだ劇プレを知らない頃。そしてこの話は劇プレ10年目の節目の年に上演された演目。
もし自分がリアルタイムでこの演目を見ていたら、自分の知識のなさと重ねられなかった時間に地団駄を踏んで悔しがっただろうと思う。この話の内容は東京オードルとリバースの話だけれど、ズームアウトしていくと劇プレの話になると感じたし、そうだと認識するには浅い知識では入り込むことはできない。10年間の歴史の中でたった何年間かの浅瀬を経験しただけではきっと、その感情をしっかりと汲み取ることはできない。今まさに『たった何年間かの浅瀬』を経験した自分ですらそのバックグラウンドを知りたいと思うのだから、もっと日の浅いときに見ていたらもっと悔しがっていたはずだ。

たとえば、『ファンが増えるにつれておざなりになっていく対応』『忙しくなることで変わっていくメンバー同士の関係性』『読まれずに捨てられるファンレター』『横柄になっていく態度』は、きっとどこにでもある話なんじゃないかなんて思ってしまう。若手俳優、女子アイドル、劇団、そして無いと信じたいけれど、彼ら自身にも思い当たる節があったことかもしれない。少しずつ自分たちの価値が高くなっていって、見えていたものが見えなくなっていって、しっかりと掴んでいたはずだったものがぼろぼろと手のひらから落ちていってしまう。それは生きている誰か、主に『アイドル』と呼ばれる人たちにとっては、必ず起こり得る話なのではないかと見ていて改めて思ったし、見ている側からもひょっとしたら演じる側からも何かを想起させるトリガーになっていたんじゃないだろうか。少なくともわたしは、奥歯を噛みしめるような苦さがあった。
この話を『メタ』だと言い切るには絶対的にわたしには知識が足りないし、今から埋めようと思ってもその時の空気感みたいなものまでは絶対に埋めきれない。「ワシが育てた」と思いたいわけではまったくないけれど、きっとこの話をリアルタイムで見ていたら先人に対しての畏怖と尊敬と少しの嫉妬が混ざりあった感情を持ってしまっていただろうなと思う、浅はかなので。劇団に人が増えていく中で、そして少しずつ応援する人が多くなっていく中で、例えば劇団員のAさんの立ち位置はどう変わったのか、Bさんの役割は何になったのか。そういうものを劇団の『今』を構成する要素として知りたい自分にとって、この話はある種の『悔しさ』として映っていただろうな、と思う。今そう思わないのは劇プレを知ってからある程度の時間が経っているからで、その間で知れた知識によって多少は補完できているからなのだろう。

けれど、メタだと言い切れなくとも、1つだけ強く伝わってくるメッセージがあった。彼らは『他力』によって成立している、という点だ。他力本願なんていうけれど、ここで言う他力とは『応援』であり、彼ら(=東京オードル)は『応援したいと思わせる力』を持っているというオチだった。推測でしか無いけれど、これはきっと福島さん(脚本家さん)が劇中の彼らと実際の彼らのことを重ね合わせて結論づけたものなんだろうなあ、と思うのだ。初演の時はそこまで浮かび上がらなかったかもしれないけれど(※これもあくまで推測です)『10周年』そしてメイキングで明らかになった『リアルな解散の危機、そしてそこからの脱出』という2つのフェーズが重なった2015年の夏、そのメッセージはすごく色濃かったんじゃないだろうかと想像してしまう。
『応援したいと思わせる力』って、言いようによっては『アイドル性』でもあるんじゃないだろうかとわたしは思う。そしてここで言うアイドルとは『不完全』という意味なのではないだろうか、と。東京オードルもそう、リバースもそう、劇プレもそう。誰一人として完全な、完璧な人はいなくて、なんだかんだみんなどこかが足りなかったり弱かったりする。歌やダンスが下手だったり、佇まいがなんだか役者さんっぽくなかったり、なんだか後ろ向きだったり。けれど、そこでもがいている姿だったりなにくそ!って思う野心が見えたりするから、その不完全さに惹かれるんじゃないだろうか。だから応援したいとファンとしては思うんだろうし、思わせるんじゃないだろうかと見ていて感じた。その重なり具合というかある種の『同一化』があまりにも見事で、どこか怖いぐらいだな、とも。

アイドルだって身近にいる人だって、完璧な人は心底羨ましい。自信を持って生きてるんだろうなあ、いいなあ、といつも思う。そんな人を応援するのも、きっと楽しい。ああいう風になりたいなと憧れのような感情で見ていられるんだろうなと思うし、それはきっと美術品とかそういうものを鑑賞するのに近いんじゃないかななんて思う。
けれど、完璧じゃない存在を応援するのも悪くない。少しずつ垢抜けていく姿や成長を目にして、喜んだり嬉しがったりするのだって楽しい。おこがましいかもしれないけれど、もしかするとそこに『不完全な自分』を見ているのかもしれないし、その対象の成長を自分の成長と同一視してしまっているのかもしれない。けれどそこに、『自分もがんばろう』という感情がもしあるのであればあるいはそれだって悪くないかもしれないと、上演時間2時間と少しの後思った。