Thirsty Thirty

生活、ときどきオタク

成長と進化の違いの話

推し個人とも、推しているPRJとも直接関係ない話なのだけれど、わたしは某有名2.5タイトルが得意ではない。得意ではないというよりも、ものすごく『苦手』だ。そんなわけでこんばんはわたしです。東京は今年初めての雪らしい雪です。

話を戻すけれど、じゃあなぜそれが苦手なのかというと、一つはとにかくそれを勧めるファンがあまりにも多くて辟易としてしまったこと。わたしは元々ジャニオタでそこから48オタを経て今のジャンルにハマっているので、比較的『生身の人間』に免疫のある方だと思う。この字面だけ見ると頭おかしい人の発言だな、まあいいや、だからこそ今のジャンルにはまり始めた頃にすごくいろんな先輩方に『あれ見なよ!』と死ぬほど勧められた。というか、未だに勧められる。
一方でわたしは『みんなと同じ』ということがあまり好きではなく、自分の好きなものは自分が選ぶ、という思考が強い。だからブワーーー!と流行っているジャンルがあってもリアルタイムでハマるということはあんまりないし、むしろピークが過ぎてからえっなにこれめっちゃ面白いやん!と遅れてハマることもザラだ。だからかもしれないけれど、『みんなに勧められるから反発する』というクソ天邪鬼な思考を以て得意としていないんだろうなと自分では思っている。でも、同じような界隈に住んでいる人10人中7人に『いいから見なって!』と言われて辟易とする人ってわたしの他にもきっといると思うんだよなあ、たまたまそれがマジョリティタイトルだからなおさら母数が多いというのもあるかもしれないけれど。

しかし、理論は分かる。2.5次元モノを通ってこなかったわたしでさえもタイトルを知っている超有名作品だし、一種の登竜門だ(だった?)と思うし、原作も途中まで読んでるからキャラクターのビジュアルと名前もある程度一致するし、なんと言ってもそこから若手俳優がたくさん排出されている、だから面白いよ!という理論だ。分かる。わたしが心の中で勝手にステージ界のジュ…ンスーパーボ…イオーディションと呼んでいる(呼ぶな)それは、だから『青田買い』という意味でも見ていておもしろいんだろうなと思う。あまり名の売れすぎた俳優さんが出ているイメージがないので、言い方は悪いけどこれを『踏み台』にしてのし上がっていく一種のタイトルでもあるように見える。帝劇俳優も声優も有名俳優もいるし。もちろんそれは、勝ち取ったその役をしっかりと演じきってこそなし得られるものだと思うけど。

あとは単純に、言い方は悪いけれどあのタイトルに捕まるとすごく『それだけ』になってしまうように見える。在籍期間(というのは多分正しい表現ではないけれど)が長いから必然的に他の仕事より優先しないといけないんだろうなと思うし、その結果自分の元々の仕事をセーブせざるを得なかったように見える人もわたしが知っている数少ない俳優の中で何人もいる。もちろん、あのタイトルが好きな人からすればそれは願ったり叶ったりなんだと思うし、その中での『成長』が見られるのはすごく楽しいんだろうなというのは分かる。けれど、飽きっぽいというか好きなものを好きだと受け入れられるまでに長く時間がかかるわたしにとってはそこはマイナスでしかなかった。

とは言えここからが本題なのだけれど、そしてこれはこんだけ前振りしたくせにこのタイトルだけに限った話ではないけれど、『公演期間中に成長する』のって、果たして観客が望んでいることなのだろうかとわたしは思う。もちろん、レベルが低いところから始まって千秋楽まで低いままで終わっていいわけではまったくない。そういうのは金返せとまでは言わないけど1回でいいな、と思う。あと見極められなかった自分に嫌悪感がある。そしてすごく難しいのは、『進化』と『成長』の違いだ。
例えば10公演あるとする。初日幕が開けて実際に観客の反応を見たら思いの外ウケなかった、間延びした、意味が伝わってなかった。だからシーンをカットする、セリフや演技プランを変える。これは『進化』だ。より良いものを作って、話としてメリハリや山場を作って、感動したり色んな感情を持って帰って欲しい、それはすごくプラスだと思うしいい役者・演出家・制作陣だなあと思う。
一方で、初日はセリフを飛ばしてしまった、踊れてなかった、緊張でガチガチだった、演技がイマイチだった、というような人が千秋楽には良くなっている。『良い』かどうかは置いておいたとしても、『見れる』レベルになっている。これは『成長』だ。そしてこれは、少なくとも公演が始まる前までに習得しておくべきものだ。もしかしたら初日のその仕上がりが既に『成長』した結果だったのかもしれないけれど、だとしたらレベル低くない?と思ってしまう。

これは2.5だけに限った話ではないし、わたし自身が2.5作品をほとんど見たことがないのでどちらかというとオリジナルの舞台での経験談がベースになっているとは思うけれど、カーテンコールでたまに主演が口にする『千秋楽に向けてもっともっと高めていきます』的な言葉も好きではない。カンパニーの千秋楽はその日かもしれないけれど、観客の千秋楽がその日とは限らないということを分かってるのか?と思うのだ。
押し付けがましい言い方をするつもりはないけれど、舞台を見に来ている人はそれなりにスケジュールや仕事、お金の算段を付けて来ている。初日を見れない人も、千秋楽を見れない人も大勢いる。初日がスタートでそこからどんどん成長した千秋楽がゴールなのだとしたら中日は成長途中ということになるけれど、そんなことを言われてしまうと『ああこれは完成形じゃなかったんだな』と感じるし、気が立っているときなんかだと『途中過程のものを見に来たわけじゃないんだけど?』とすら思ってしまう。そういうテーマを大々的に掲げたものだったら納得はするけれど、多くの場合そうじゃないでしょう、と。そしてこれは大枠としての舞台だけではなくて、役者個人にも言えることだと思う。『まだまだできる』と『これからもっとやれる』の線引きってすごく難しい。できるんやったら最初からその力出してよって思うし、かと言って毎回毎回同じ水準のものを見せられてもってなるし。

見る側の問題ももちろんある、元々舞台ってそんなに毎日毎日足繁く通うものでもなかったんじゃないだろうか。だから、『同じである』ということはいつ見ても同じレベルのものを見せてもらえるということと同義だったはず。でも今はそうじゃなくて、役者や脚本家、演出家にそれぞれファンが付いて、自分の選択で何回も見る人が圧倒的に増えて、その中で『毎回同じってどうなの?』『公演期間中に成長するって何見せられてんだ』と思うようになってきたんじゃないかなと思うのだ。なぜなら、例に漏れず自分がそうだから。
役者に求めるハードルが高いのではないかと言われればそうかもしれない。でも、自分が選択して見ているとはいえ納得できないものに安くはないチケット代を払い続けるのは正直しんどいし、すごく不毛だなと思う。そういうところから連なってもう応援するの疲れたなと思ってしまう、という話もよく聞くし、わからない話では全くない。

推しや自分の応援している人がそういうタイプだから怒ってるというわけでもないし、それに近い何かを見たわけでもない。往々にして進化ではなく成長を見せようとするのはどちらかといえば制作側の力量に依ることの方が多いので、そういう制作に捕まらないことを祈るしかないのももどかしい。成長ではなく進化を、そしてできるならそれは自分が推している彼自身がもがいて自発的に進化しようとしているものであるということを見られる機会が今後もたくさん見られるといいなと思うしかできないのだ、ただの一介のファンだから。